2009年06月17日

跳ね橋(はねばし)とは城門によく見られるような

跳ね橋(はねばし)とは城門によく見られるような可動橋。撥ね橋。跳開橋。桔橋。刎橋。

城門の跳ね橋はその最も典型的な利用例であろう。城門防備、城内の治安維持のため、橋を上げ下ろしすることで通行を制限することが出来た。最も多く見られる跳ね橋は蝶番を備えた木製の橋桁を、城壁面に取り付けられたロープや鎖で反対側へと跳ね上げるタイプのものである。

単純な構造の跳ね橋は川幅の狭い運河でよく見られた。その構造は橋脚脇を回転軸として釣り合いおもりを利用して、橋桁をハの字に跳ね上げるものである。中世には堀や水路を横切っての通行に統制を加える目的で利用された。運河に設けられた跳ね橋の場合は、通行を許可する場合に下ろされるし、許可しない場合、橋は跳ね上げられた。城門の場合も同じで跳ね橋を上げて入城を拒むことが出来た。

日本においては、江戸城本丸の北桔橋・西桔橋などの例があったが、いずれもその後固定橋に改修されている。
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現代では規模の小さな水路で船舶の通行を妨げることなく、自動車や列車が水路上を横断することができるような利用のされかたをしている。

鉄道どうしの交差でも、跳ね橋の構造が使われる場合がある(例)。幹線側のレールの上に優先順位が劣る側のレールを跳ね橋構造でかぶせるという様式で、幹線鉄道のレールには切れ目がなくなり、速度制限や破損などのおそれを避けることができるようになる。

また、宅地の周辺に堀をめぐらし、その堀に簡便な跳ね橋を架けることで、防犯・防火対策としたケースもある。中山道の蕨宿などに例が見られる。

2009年05月31日

中国は五代十国時代の分裂期に入り

唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の二代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。

世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳六年(959年)に39歳の若さで急死。あとを継いだのはわずか七歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳七年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ)
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このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた節度使(藩鎮)から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることに成功した。

更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は隋の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代に於いては科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。

体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌乾徳二年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝三年(970年)には南漢を開宝七年(974年)には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝九年(976年)に唐突に崩御。

後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国三年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国四年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。

また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの十人前後から一気に2百人超までに増やし制度の充実を図る。

五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている

2009年04月28日

ナショナリズムの多義性

このように「ナショナリズム」という語が多義化する理由は、「ネイション」 (nation) という語が、各時代・地域においてさまざまに解釈されることを一因とする。フランス革命後のフランスでは「ネイション」とは近代市民社会の普遍的諸理念を共有する個人・市民によって構成される共同体として考えられるが、一方でナポレオンの侵攻によって「ナショナリズム」に覚醒するドイツでは、「ネイション」とは固有の言語や歴史を共有する民族共同体として考えられる。

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さらに、ナショナリズムが高揚した19世紀においては、国家は自由意志を持つ個人が構成員であることを前提としていたが、20世紀前半に大衆社会へと突入すると、権威に盲従する大衆も出現する中で、ファシズム政権が彼らを妄信的に政府主義(Statism)へと駆り立てさせた。そして、ときには国家の構成員である国民一人ひとりの権利を抑圧することすらも受容されていくことになった。こうした類の政府主義は国民主義(ナショナリズム)ではない。

古代ローマ帝国において用いられていた、「生まれ」を意味するラテン語「natio」(動詞「nascor」から派生)が、ネイションの語源となる。この「natio」という概念は、本来的には国家と結びつくものではなく、むしろローマ帝国期には「よそ者」というニュアンスで用いられた。中世ヨーロッパにおいても、この語によって想起されるのは宗教会議などに集まる同郷集団であり、やはり国家との結びつきがあったわけではない。

ネイションと国家が結びつけられるのは、ヨーロッパにおいて主権国家体制が確立する17世紀頃だと考えられる。17世紀のイギリス革命においては、「ネイション」の概念は聖職者やある特定の集団のみを指し示すのではなく、幅広い人民を包含するようになった。ただし、フランスの絶対王政のもとでは、主権者である国王に対する臣民としてネイションが理解されていた。この場合、ネイション(国民)と政府は結びついているが、あくまでも身分制社会の枠組みの中でのものであり、ネイションや政府を構成する一人一人が人権を有する対等な存在にはなっていない。1789年に勃発するフランス革命は、フランスにおける国家形成の契機となった。すなわち、身分制度が否定され、近代市民社会の諸権利が保障される中で、基本的人権という普遍的な権利を持つ一人ひとりが対等な形でネイション、そして政府を構成する時代へと突入した。その国家(国民とその政府)という共同体が、ある普遍的な理念に基づいて形成されるものなのか、それとも歴史・伝統に根ざした民族に基づくものなのか、それとも他の新たな観点から説明できるものなのか、これらが錯綜してナショナリズムの定義を難しくさせているのが現状である。

2009年04月12日

オンタリオ湖

オンタリオ湖(Lake Ontario)は、北アメリカ大陸にある五大湖のうち最小の湖。世界では14番目の面積をもつ、氷河によって削られてつくられたといわれている淡水湖。

オンタリオ湖の名前は、イロコイの言葉で「美しい湖」または「輝く水」に由来する。カナダのオンタリオ州は、この湖の名にちなんで名付けられた。

面積は19,009km?あり、四国4県を合わせた大きさとほぼ同じ。東西の長さは310kmで、南北の長さは85km。水深は最も深い場所で244mある。

湖の北側はカナダのオンタリオ州に、南側はアメリカ合衆国のニューヨーク州と接している。南西のカナダとアメリカの国境にはナイアガラの滝がある。また、同滝を挟んでエリー湖につながっている。北東からはセントローレンス川に湖水が流れ込み、大西洋へとつながっている。

沿岸の主要な都市としては、北岸西部のトロント、南岸中央部のロチェスターなどがある。

ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット


2009年03月28日

成人T細胞白血病

成人T細胞白血病(ATL)または成人T細胞白血病/リンパ腫(ATLL)とは、1976年に高月清らによって発見、命名された疾患である。レトロウイルス、腫瘍ウイルスであるHTLV-1(ヒトT細胞白血病ウイルスI型)の感染により発症する腫瘍性疾患である。独自の形態をもつ異型リンパ球(CD4陽性リンパ球)の単クローン性腫瘍である。
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1970年代の日本の白血病、リンパ腫の論文ではいくつかの興味深い症例報告を見ることができる。西南日本に予後不良の悪性リンパ腫が多いこと、家族内発症が悪性リンパ腫にみられること、ホジキン病が南九州に多いこと、セザリー症候群や皮膚T細胞リンパ腫が九州に多いこと、リンパ腫から白血化し、急激に死にいたる症例が認められること、末梢血に核が分葉した奇妙な白血病細胞が認められることなどがあげられる。これらの多くは2008年現在の診断能力ではATLと診断されておかしくないものばかりである。このようにATLは古くから存在していた。腫瘍ウイルスが原因とわかったのは1980年代である。

疫学 [編集]
日本では西日本、特に九州にHTLV-1感染者が多く、世界的にはカリブ海沿岸諸国、中央アフリカ、南米などで頻度が多い。HTLV-1は母乳により垂直感染を起こすことが知られており、乳幼児の感染者が40?60年の潜伏期を経て成人T細胞白血病を発症する。HTLV-1キャリアは日本全国で100?200万人いると言われている。毎年600?700人程度キャリアがATL(病型は問わない)を発症している。キャリアの生涯を通しての発症危険率は2?6%である。本疾患は多くの病型が知られているが急性化すると極めて予後不良である。急性型と診断された患者の生存期間中央値は1年未満である。

HTLV-1の感染はHTLV-1感染リンパ球がリンパ球に直接接触したときに感染が成立するといわれており、このような経路としては輸血、性交、母乳があげられる。性交に関しては精液に含まれるリンパ球を通じて男性から女性への感染が基本である。母乳感染がほとんどであり、人工栄養に切り替えると母子間感染率が20%から3%に低下するため、本疾患の撲滅には母乳遮断が有効であると考えられている。なお、個体内でのHTLV-1増殖の場は主にリンパ節であると考えられている。リンパ節で増殖したATL細胞が血液中に流出し(白血化)、特徴的な細胞が末梢血で見られるようになる。

HTLV-1の発癌機構 [編集]
母乳中のHTLV-1感染リンパ球が、乳児の消化管内で乳児のリンパ球に接触することでHTLV-1は新たに感染することができる。レトロウイルスであるため、リンパ球DNAに組み込まれ、ウイルスの再生産を行う。HTLV-1のp40 taxは宿主細胞のIL-2レセプター遺伝子などを活性化し、その分裂増殖を引き起こす。こうして無限増殖を繰り返す宿主細胞が、その過程でなんらかのエラーをおこし、形質転換を起こし、ATLを発症すると考えられている。

ATLの病型 [編集]
ATLの臨床経過は多彩であり、以下のような4つの病型と1つの病態が知られている。

急性型
リンパ腫型
慢性型
くすぶり型
急性転化
下山らによって行われたこの分類法は今日でもよく用いられる。この診断基準は消去法にて定義されている。急性型の病態が最も多彩であり、定義しにくい反面、くすぶり型、慢性型、リンパ腫型はそれぞれの特徴が比較的明確である。基本的には定義しやすい病型でなければ急性型と考えた方が安全である。 予後不良因子としては、年齢、パフォーマンスステータス、総病変数、高カルシウム血症、高LDH血症があげられる。予後不良因子を持たないくすぶり型と慢性型では、化学療法がむしろ免疫不全を助長し感染症合併の要因になるため、原則として経過観察とする。急性型、リンパ腫型では極めて予後不良であるため直ちに加療する必要がある。CHOP療法が選択されるが再発、薬剤耐性化が多い。若年発症では造血幹細胞移植も試みられている。

症状 [編集]
急性型の病歴は非常に多彩である。

HTLV-1関連疾患 [編集]
ATLL以外にHTLV-1感染によって起こる疾患としてはHAM/TSPやHU/HAUがあげられる。ATL患者のリンパ球のサザンブロット法で解析をするとモノクローナルにプロウイルスDNAが組み込まれているのに対してこれらの患者ではポリクローナルとなっているためにATL発症の中間状態であると考えられている。

今後の治療 [編集]
急性白血病と同様、寛解導入療法後の造血幹細胞移植が検討されている。寛解導入療法としてはCHOP療法やLSG15といった化学療法を用いて造血幹細胞移植は一般的な前処置を用いた同種骨髄移植が考えられている。

2009年03月12日

ミストラス

ギリシア・ペロポニソス半島南東部・ラコニア県にある中世城塞都市遺跡。東ローマ帝国の地方行政組織モレアス専制公領の行政府、文化都市。日本では西欧の文献で長く用いられた表記を採用して「ミストラ」(Mistra)と記す場合も多い。

標高15m、2001年現在の人口は4,608人(新ミストラス村)。
この都市の元々の名前「ミジスラス」は「チーズ製造酪農家」を意味する中世ギリシア語である。これが「ミストラス」という現在の形に変わったのは17世紀以降のことと考えられる。十字軍と共にやって来た西欧人はギリシア人が話すこの言葉の対格形(Μυζηθρά)を主格と聞き違え、自らの言語に採り入れて「ミシスラ」(Misithra)とした。その後この名称が転訛を遂げて17世紀後半に「ミストラ」と呼ばれるようになり、現在に至っている。西欧の文献並びにそれを採り入れた日本語文献の多くでこの名称が用いられているのは、こうした経緯によるものである

ミストラスの歴史は近隣に立つ古代都市スパルタの歴史と密接に結びついている。古代スパルタは395年の西ゴート族長アラリックの攻撃により崩壊し、間もなくキリスト教都市として再建された。その後、6世紀に始まるスラヴ人の侵入と定住の中、再度スパルタ市は放棄され、市民の一部はシチリア島に移住、別の一団は半島南東端の沿岸にモネンヴァシア市を建設してスラヴ人の波を逃れることになった。10世紀にスラヴ人のギリシア正教文化への同化が完了してペロポニソスに於ける東ローマの支配(初期はセマ・エラスの一部、後にセマ・ペロポニソスとして独立)が再建されると、スパルタ市も再び府主教座都市ラケデモン(ラケデモニアとも。古代名ラケダイモンに由来)として再建され、その後長く安定した時代が続いた。

ペロポニソスとスパルタの状況が一変するのは、東ローマの首都コンスタンティノポリスを征服しラテン帝国を建設した第4回十字軍の時代である。彼らは征服前の取り決めに基づいて旧帝国領を分割することになったのであるが、ペロポニソス半島(この頃からギリシア人によって「モレアス」と、ラテン人によって「モレア」と呼ばれるようになった)はフランス騎士ギヨーム1世・ド・シャンリットとジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンの二人に与えられ、彼らが征服を進めつつアカイア公国を建設した。

ミストラスの建設
第四代アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン(在位1246年-1278年)は1248年にモネンヴァシアを占領して半島の統一を達成した。しかし、タイゲトス山脈にはなおスラヴ人の一部族・メリング族が拠り、公国に対して不服従を続けていた。ギヨームは1249年、彼らを監視し服属させるための前線基地としてタイゲトス山脈脇に良好な条件を備えた丘を見つけここに城を築いた。それがミストラスの始まりである。彼は他に「大マニ城」(1250年)も建設し、重点的に支配の確立を図った。前哨基地として建設されたミストラスであったが、ギヨームはこの城を気に入り、かなり多くの時間をここで過ごしたようである。当初は城に滞在していたが、新たに滞在用の居館(後の宮殿の一部)を丘の中腹に建設している。

アカイア公国の全盛期を築き上げたギヨーム2世であったが、思わぬところで失墜を経験する。彼はコンスタンティノポリス奪回に大きく前進しつつあった東ローマの亡命政権ニケア帝国のミハイル8世パレオロゴス帝を牽制すべく、イピロス専制公国やシチリア王国との同盟に乗り出し、1259年にペラゴニアの戦いでこれに挑んだ。しかし同盟軍は大敗を喫し、ギヨームは捕虜となってしまう。彼は三年間の虜囚生活の後、漸くミストラス、モネンヴァシア、「大マニ城」、ゲラキ四要塞を東ローマに割譲することで釈放された(1262年)。こうしてミストラスは東ローマ領ペロポニソスの重要拠点としての歴史を歩み始めることになった。

当初は港湾・要塞都市モネンヴァシアが東ローマ支配の拠点となったが、東ローマ側がアカイア公国の征服を目指して内陸に進出するとミストラスに中心地が移動した。しかも、戦争が膠着状態になったため、戦乱を避けてそれまでスパルタに居住していたギリシア人住民が安全を求めてミストラスの城下に集まってくるようになった。こうして、それまでは単なる城であったミストラスが都市として発展する土壌が作られた。

モレアス専制公領の成立とミストラスの発展
ミストラスが発展期を迎えたのは14世紀も半ばのことである。帝位争いの内乱を経て即位したヨアニス6世カンダクジノスは、内乱で弱体化した帝国を再建すべく各地に親族を統治者として派遣した。ペロポニソス半島には次子マヌイル・カンダクジノス専制公(在任1349年-1380年)が派遣され、彼は1349年10月25日に到着した。これがいわゆるモレアス専制公領の発足である。マヌイルは半島全体の復興と発展に尽力したが、中でもミストラスの発展はめざましいものがあった。彼はミストラスに居を構え、専制公領の拠点にふさわしく、また増加しつつあった人口に対応し得る都市作りを開始した。彼は市街地を取り囲む城壁を建設し、各所に塔や門を建設して防備を固めた。またヴィルアルドゥアンが建てた居館を増築して宮殿とし、行政の中心とした。城壁内地区に移り住んだ人々はそれぞれの家屋を建設し、市街が形成されていった。この時、市街建設の建材には既に廃墟となった古代スパルタの石材が多く使われている。

マヌイルがミストラスにもたらしたのは単なる都市空間の基礎だけではない。一流の教養人を父に持つ彼は文芸にも理解を示し、戦乱・政争を逃れてコンスタンティノポリスやセサロニキから移住してきた文化人を保護し、また聖堂・修道院の建設を後援した。自由な気風に満ち溢れたミストラスに於いて、文芸では人文主義、教会美術においては写実的な作風が特徴的ないわゆる「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる文化興隆の一典型が形成された。少し後の時代になるが、「ギリシア民族の再生」を訴えた新プラトン主義哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プリソンを生み出したのも、このミストラスの環境であるといえる。彼はこの都市で研究し、教育活動を行い、1452年にここで死去した。

マヌイルの死後間もなくしてモレアス専制公領はパレオロゴス家の構成員による統治に移行したが(1384年)、ミストラスは変わりなく同地の政治・社会・文化の中心地であり続けた。この時代にはさらに宮殿に謁見広間が増築されて現在の形となり、市街地はさらに拡大された。修道院や聖堂の数も増加し、文化都市としての発展も続いた。モレアス専制公領はコンスタンディノス・パレオロゴス専制公(後の皇帝コンスタンディノス11世)の許でアカイア公国を併合して半島の統一を達成し、さらにはアテネとギリシア本土に進軍する勢いを見せた。ミストラスは中世ヘレニズムの中心地として、オスマン朝に周囲を囲まれて衰退を見せる首都コンスタンティノポリスを凌ぐ繁栄を謳歌した。

しかしモレアス専制公領の発展と繁栄も、遠く離れたコンスタンティノポリスを解放する力とはならなかった。ギリシア本土に進軍したコンスタンディノスの軍隊はオスマン軍の反撃に遭い敗退し、専制公領にも大きな被害をもたらした。コンスタンディノスは兄ヨアニス8世パレオロゴス帝の死去に伴い、1449年1月、ミストラスで戴冠しコンスタンティノポリスに向かった。彼がこの地を再び踏むことはなく、1453年5月29日、コンスタンティノポリスの陥落と共に世を去った。

今やバルカン半島と小アジアを統一する勢力となったオスマン朝に対し、東ローマ唯一の残存拠点となったモレアス専制公領は内紛に揺らぎ、抵抗する術を持たなかった。1460年5月29日、最後のミストラス専制公ディミトリオス・パレオロゴスは進軍するオスマン朝のスルタン・メフメト2世に降伏開城し、モレアス専制公領の歴史は終わった。くしくも、それはコンスタンティノポリスの陥落から丁度7年目の事であった。

オスマン時代
しかし、オスマンによる征服はミストラスの歴史の終わりを意味しなかった。トルコ風にメジストレ(Mezistre)と改称されたミストラスは引き続いてオスマン領となったモラ(モレアス)県の行政府として発展を続けた。丘上の城は守備隊の駐屯地、宮殿は県知事の所在地、キリスト教の聖堂や修道院は多くがイスラム教のモスクに改装された。ミストラスに新たなモスク建設の跡が見られないのは特筆すべきことであり、新たな住民となったオスマン人も、この美しい建築物を愛好したことを伺わせる。約一世期間にわたる平和期間の中で市街地はさらに拡大され、城郭地区を越えて「外市街」までが形成されるに至った。また土着の産業として絹織物産業が発展し、ミストラスの発展を経済的にも支えた。市街にはトルコ人、ギリシア人の他、ユダヤ人商人も住み着き、彼らの地区も形成されている。

その後、16世紀末から1684年-1715年の一時的なヴェネツィア支配を挟んでペロポニソス半島は小規模な紛争の断続する時代に入ったが、ミストラスは特に大きく影響を受けることはなかった。この時代には人口42, 000人を数えていた。
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近代に入り古代ギリシアへの関心が西欧で高まると、ドイツ、フランス、イギリスなどから数多くの旅行者がギリシア各地を訪問した。彼らはミストラスをも訪問したが、彼らはそこを中世ビザンティン都市とは見なさず、古代スパルタの栄光を見出そうとした。専制公の宮殿は彼らにとってはトロイア戦争の英雄、「スパルタ王メネラオスの宮殿」だったのである。有名なヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』第二部第三幕ではファウスト博士が乗っ取った「スパルタ宮殿」が出てくるが、これもまたミストラスの描写そのものである。

破壊と衰退―ミストラスの終焉
ミストラスに破壊と衰退がもたらされたのは、18世紀後半のことである。この頃になると、次第にペロポニソスのギリシア人は自立、あるいはさらに独立を求める傾向を強め、これに西欧・ロシアなど列強が絡んで紛争は拡大した。1770年、ロシア帝国女帝エカテリーナ2世の指令を受けたオルロフ家のグリゴリー・アレクセイ兄弟がペロポニソス半島において大規模な反乱を指導した。しかし、これは失敗に終わり、その報復としてオスマン朝のアルバニア軍団が半島全土に破壊と荒廃をもたらした。ミストラスもその例外ではなく、市街の建造物の多くが破壊され、人口も大幅に減少した。

歴史の皮肉がミストラスに襲いかかる。既に衰えたミストラスにとどめを刺したのは、1821年に始まるギリシア独立戦争であった。1825年、オスマン朝アルバニア軍団の司令官イブラーヒーム・パシャ(エジプト太守ムハンマド・アリーの息子)はギリシア軍に猛攻を加え、ミストラスを占領しこれを灰燼に帰せしめた。ミストラスの都市機能はこの時、事実上終焉を迎えた。さらに、ギリシア独立後の1834年、新国王オソン1世はミストラスの「死滅都市」宣言を発し、新たにスパルタ市の建造に着手する。住民は次々にスパルタに移住し、新たな都市の建設には廃墟となったミストラス建造物の建材が再利用された。ミストラスが建設された時とは逆の事が行われたのである。なお留まっていた住民は旧来の城郭地区ではなくその外側(かつての「外市街」を含む)に新たなミストラス村を建設しそこに居住することとなった。

1921年、ギリシア政府はミストラスを史跡に指定し、都市全体が博物館として保存されることが決定した。1938年からは建造物の修復・保存活動が始まっている。

第2次世界大戦とそれに続くギリシア内戦の一時期、ミストラスは近隣住民の避難先、あるいは軍の拠点として使用されたが、1949年の内戦終結に伴ってパンダナサ修道院の修道女を除いて残っていた全住民が退去し(1953年)、生活空間としてのミストラスの歴史は完全に終わりを告げた。ミストラスは都市遺跡・博物館として整備され、1989年にはユネスコ世界遺産に登録されて現在に至っている。

ミストラスの史跡
ミストラスにはギリシャ正教会関連の美しい聖堂・修道院と宮殿・住居など数多くの建造物が残っている。

聖堂・修道院
府主教座?アギオス・ディミトリオス聖堂  スパルタ?ラケデモニア府主教座がここにあったのでこの名で呼ばれる。もともとはバシリカ様式で建てられたが後に上部にギリシア十字・ドーム建築を増設した特異な複合建築、通称「ミストラス様式」の建物となる。併設された僧房は現在博物館となっている。
オディギトリア聖堂  別名アフェンディコ聖堂。オディギトリアとは「導きの主」を意味する生神女マリアの異称。アギオス・ディミトリオス聖堂とは逆にギリシア十字・ドーム聖堂として建築された後改築されてミストラス様式となる。ヴロンドヒオン修道院主聖堂で多数の付属施設(食堂、僧房、埋葬堂他)。
パンダナサ修道院聖堂  1428年、ヨアニス・フランゴプロスによる建立。パンダナサとは「世界の女王」を意味する生神女マリアの異称。初めからミストラス様式で建設。現在も女子修道院としてミストラスで唯一活動。『ラザロの復活』『イェルサレム入城』といった福音書題材の連作など、多数のフレスコ画が比較的状態良く残る。人間描写が深まり、後のイタリア・ルネサンスのはしりともいわれる。
アギア・ソフィア聖堂  ゾオドトス・ピギ(生命の泉)修道院の聖堂(専制公宮殿付聖堂)と推定される。ギリシア十字・ドーム聖堂。
ペリヴレプトス修道院聖堂  14世紀中頃の建立。市街の南の外れ、丘をくり抜いて建てられた聖堂。内部はパンダナサと並ぶ多数の傑作フレスコ画がある。
アギイ・セオドリ聖堂  ヴロンドヒオン修道院の聖堂。1295年頃の建立。ミストラスに現存する最古の聖堂で、唯一の八角形ギリシア正十字聖堂(同じく世界遺産のダフニ修道院聖堂と同一の形式)。壁画はほとんど現存せず。

世俗建築
専制公宮殿  三時代の建築。右翼館はヴィルアルドゥアン時代の建物、左翼館はパレオロゴス時代の建物で謁見の間として使用。中央館は初代専制公マヌイル・カンダクジノスの宮殿。専制公住居、食堂・厨房を備える。現在修復中。
ヴィルアルドゥアン要塞  ミストラス最初の建築物。丘の上にそびえ立ち、タイゲトス山脈を睨む。
城壁・塔  モレアス専制公領成立後、人口増加に伴い単なる城から城塞都市へ拡大。市街地を囲い込む城壁と防備の為の塔、通路としての門が建設される。市街への入り口は二カ所。
邸宅  モレアス専制公領時代からオスマン時代にいたる有力市民の邸宅。大半が廃墟になっているが、一部は修復され公開もされている。

2009年02月24日

メタデータ

メタデータ(metadata)、メタ情報とは、メタなデータ、すなわちデータについてのデータという意味で、あるデータが付随して持つそのデータ自身についての抽象度の高い付加的なデータを指す。

情報検索システムの検索の対象となるデータを要約したデータのことをメタデータと呼んでいる。図書館情報学の分野では書誌情報と呼ぶこともある。例えば文書であれば著者名や表題、発表年月日等のほか、関連キーワードなどを含めるのが一般的である。また、デジタルカメラを用いて写真を撮影し、JPEGファイルとして保存した場合、Exifにそったメタデータが自動的に作成されるのが一般的である。メタデータとして記述される関連キーワードのことを索引語と呼ぶことがある。他にはYouTubeなどに代表される動画共有サイトやFlickrなどのフォトアルバムサービスなど置いて動画ファイルや画像ファイルをアップロードする際に登録する「タグ」もメタデータの範疇に入る。

メタデータを作成する目的は主に、検索が実行されるたびに検索の対象となるデータの性質を読み取り検索結果に含めるかどうかを判定するのは著しく非効率であり、あらかじめ検索を行いやすい状態に加工を行っておき、データを検索用に整理しておくためのものである。例えばインターネット上に置ける現在の主流な情報検索システムでは、ある特定の動画ファイルを検索する場合は、動画ファイルの動画内容そのものではなく、動画のタイトルやタグなどその動画に付随するメタデータと入力された検索対象のキーワードとの類似性によって、検索結果を出力するのである。

メタデータスキーマ
メタデータスキーマを統一しておくことで複数の主体によって記述されたメタデータの相互運用性を実現することができる。相互運用性の高いメタデータは機械可読なメタデータとして利用しやすいため、スキーマ団体や特定の業界団体において様々なメタデータのスキーマが制定されている。 メタデータスキーマは以下の要素から構成されている:
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

属性集合(属性語彙)
メタデータとして記述する情報資源の属性の定義。例えば:タイトル、著者、出版者など、属性を表す語とその集合の定義。
属性値型集合(属性値型語彙)
メタデータとして記述する属性値の記述形式の定義。例えば、日付や名前の記述形式、主題を表す統制語彙など、属性値の型あるいは形式を表す語とその属性の定義。
構造的制約(抽象構文)
属性値記述の省略可能性や繰返条件などメタデータの構造的な制約。構造的制約は、具体的なシステム上でのメタデータの実現形式に依存しないメタデータの構文規則を決める。
実現形式(具象構文)
システム上でのメタデータの具体的表現形式。

メタデータ利用の問題点
メタデータ、とりわけ広義のそれを利用する場合、主に意味的な部分で情報そのものとメタデータが示す情報の乖離という問題が本質的に生じる。また、情報そのものが改変された場合(必要であれば)メタデータも同時に変更されるべきだが、時間的なずれや同期もれが起こるおそれがある。 第三者による改ざんや、機械的な処理により意味が吟味されないといったことで、検索の精度が低下することもある。また、情報の評価が個々人の主観に依存し大きく異なる場合にはメタデータの有効性が発揮されにくい。したがって、効率が犠牲にならない場合はメタデータを利用するよりも本来の情報そのものを直接参照できるのが望ましいとされる。

2009年02月08日

記念切手

記念切手(きねんきって、英語:Commemorative stamp)とは、なんらかの国家的行事を記念して発行される郵便切手である。販売される郵便局や販売期間、枚数に定めのない普通切手とは異なり、一定枚数のみ印刷され、場合によっては販売される郵便局や販売期間、郵便に使用できる期間までも制限されるのが特徴である。なお、キャンペーンや文化財の紹介国家的宣伝などの意図をもって発行される切手を収集家は特殊切手(恒例切手と呼ぶ場合もある)と呼称している。ただし、このような呼び分けは日本および中国におけるものである。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

世界最初の記念切手は、ペルーが1871年4月に発行した切手である。この切手は、南アメリカ大陸最初の鉄道である、リマ?カヤオ間の鉄道開通20周年と、チョリヨスまでの鉄道延伸を記念して、発行されたものである。 それ以外に、以下の切手が最初の記念切手と主張されることもあるが、発行枚数の制限なく、大量に使われていたことから、一般的には普通切手とみなされている。

アメリカ合衆国が1866年に発行した、エイブラハム・リンカーン大統領(前年に暗殺された)の15セント切手
イギリスが、ヴィクトリア女王即位50周年を機に、1887年に発行した新普通切手、ジュビリー・シリーズ
切手に記念を謳う文字を入れた最初の切手は、ニューサウスウェールズ(現在のオーストラリアの州)が1888年に発行した6種類の切手である。この切手には、英語で「(植民地成立)100周年」と示されている。

記念切手が出現した当時は、これを異端扱いする切手収集家も存在していた。1894年ごろには、ブラックリストに入れるべきであると主張する切手収集家団体も存在したが、大勢に大きな影響を与えることは無かった。現在では最も多く発行されている切手の種類のひとつとなっている。

一般的に記念切手は、何の記念かを明示するために題名がつけられる事が多いが、何らの説明がない場合もある。また記念切手に慣例的に西暦で年号が入れられているが、古い時代の切手にはないものが多く、現在でもない場合もある。西暦のほかに日本(元号)や北朝鮮(主体暦)など、その国独自の年号が入れられている場合もある。

中国の切手には「編号」とよばれるインディックスナンバーが入れられている。これは切手の下部に入れられており、1949年に最初に発行された記念切手には「紀1 4-2」などと入れられていた。これは第1回発行の記念切手のセットで、4種セットのうちの2番目の意味である。この制度は1966年の文化大革命で中断したが、1974年から「J」に変更されて復活し、1992年以降は「20XX-11 (3-2)J」といった記名方法に変更された。なお特殊切手の場合は「特」(1974年以降はT)である。また同様な制度はベルギーなどでも行われている。

日本の記念切手
明治天皇銀婚切手(2銭)日本の最初の記念切手は 、1894年(明治27年)3月9日に発行された明治天皇銀婚記念(2銭と5銭の2種)である。この切手には、英文でも記念銘が加えられていたほか、「紀念郵便切手」と書かれている。これは、「記念」には「かたみ」の意味があり、これを避けたためだといわれている。そのため日本の初期の記念切手には「紀念」と書かれていたが、大正から昭和にかけて文部省(現:文部科学省)で「記念」の語を使うようになったため、これに倣い、現在と同じ「記念切手」という表記が使われるようになった。なお、中国では現在も「紀念」の字が使われている。

日本では昭和時代初期まで記念切手は数年に一度しか発行されていなかった。記念切手は2種または4種のセットで発行され、天皇即位・立太子の礼など皇室関係の慶事を記念したものや、明治神宮や伊勢神宮などの国家神道に関係するものが主であったが、第一次世界大戦終結を祝う平和切手や、第15回赤十字国際会議の記念切手なども発行されていた。第2次世界大戦後は毎年のように発行されるようになり、現在では、毎年数十種前後の記念切手が発行されている。

2009年01月23日

ヌートリア(海狸鼠・沼狸、Myocastor coypus)

ヌートリア(海狸鼠・沼狸、Myocastor coypus)は、ネズミ目(齧歯目)ヌートリア科に属する(以前はカプロミス科に分類されていた)哺乳類の一種。

南アメリカを原産地とするが、毛皮を取るために移入したものが野生化し、現在、北アメリカ、ヨーロッパ、日本を含むアジアに帰化して分布する。

「ヌートリア」とはスペイン語でカワウソ(の毛皮)を意味し、原産の南米では本種のことを「Coipo」と呼ぶ。英名でも「Nutria」より「Coypu」の方が一般的である。かつての日本では、海狸鼠(かいりねずみ)、沼狸(しょうり、ぬまたぬき)などとも呼んだ。

特徴
頭胴長40-60cm、尾長30-45cm、体重5-9kgの大型の齧歯類である。半水性で、池沼や流れの弱い河川の岸辺の土手などに巣穴を掘り、普通は雌雄のペアで生活をする。結氷するような寒冷地では生息できない。水辺の生活に適応しており、泳ぎが得意で5分以上潜水することもある。体つきはドブネズミなどに似るが、耳が小さく、後ろ足には水かきがある。オレンジ色の大きな前歯も特徴的。また、水上でも授乳できるよう、乳首がやや背中寄りについている。主食はマコモやホテイアオイなどの水生植物の葉や地下茎である。明け方と夕方に活発な採餌のための徘徊行動が見られ、日中は巣穴で休息していることが多い。雌は定住的で、雄に比べて行動範囲は狭い。若い個体は新しい縄張りを求めて移出する。

季節を問わず繁殖し、年に2、3回出産をする。妊娠期間は約4ヶ月で、平均5匹の子を産む。十分に発達してから産まれるため、丸一日後には泳げるようになり、3日後くらいには早くも成体と同じ餌を摂り始める。その後約半年で性成熟する。寿命は5?8年程度。

ヌートリアは丈夫で育てやすく、柔らかい上質な毛皮が安価に入手できるため、第二次世界大戦ごろには、軍隊の防寒服用として世界各国で飼育された。日本では1939年にフランスから150頭が輸入され、飼育が奨励された。このころは軍隊の「勝利」にかけて「沼狸」(しょうり)と呼ばれ、1944年ごろには、日本全国で4万頭が飼育されていた。

終戦後、毛皮の需要が激減したことに伴い、その多くが野外に放逐された。また、1950年代の毛皮ブームでは本種の飼育が流行したが、その後の毛皮価格の暴落に伴い、このときも多数が野に放たれ、野生化している。これらの子孫が各地で定着し、西日本各地(広島県、岡山県、島根県、香川県と近畿・東海の各府県)に分布が拡大していたが、千葉県や静岡県の一部でも生息が確認されており、今後も拡大すると考えられる。特に岡山県にはかなりの数が生息しており、年間約800?2000頭もが害獣として捕獲・駆除されている。

人間との関係
日本では侵略的外来種として問題になっており、イネやオオムギ、葉野菜などに対する食害のほか、絶滅危惧種に指定されているベッコウトンボの生息地を壊滅させるなど、在来種の生態系への影響も深刻である。さらに、本種の巣穴は複雑に入り組んでいて深く、水田の畦が破壊される原因にもなっている。

1970年代のイギリスでは、10年がかりで約100万頭を捕殺し、絶滅にまで追い込んだ。

ハクビシン(白鼻芯, Masked Palm Civet, 中国語 果子狸:クオツリー、guǒzilǐ)は、ネコ目(食肉目)ジャコウネコ科に属する動物である。学名はPaguma larvata。その名の通り、額から鼻にかけて白い線があることが特徴である。東南アジアから中国を中心に分布している。日本に生息する唯一のジャコウネコ科の動物である。

日本では四国と本州の東半分に生息している。奥尻島に生息しているとの報告もある。日本の在来種なのか移入種なのかははっきりしない。国内に生息しているという最初の確実な報告は1945年、静岡県におけるものである。それ以前の古文書における生息の記載[1]や、化石記録が存在しないことから、外来種とされてきたが、日本列島に現在生息している個体群は顔面の斑紋などが他の分布域のものと異なることから、日本に自然分布している固有の独立亜種である可能性を唱える説もある。

植物質の餌でも育ち、捕獲も容易でそれなりに人に馴れ、飼育もできる。そのため戦時中に軍需の毛皮・食肉を得るため、寒冷な気候の高地や東北地方に密かに占領地から持ち込まれ、各地で研究飼育された獣の一種で、個体が逃げ出したり放棄されたりして繁殖したともいわれている。人家近くに生息して屋根裏でも繁殖する。子どものうちはよく人に馴れて愛くるしい。リスやネズミに比べてかなり大型の獣である。さらに農作物の被害も大きいが戦前の生息記録が無いという。千葉県のある農夫は作物を守るため、トラバサミで年間20頭弱を捕獲するといい、特別な捕獲名人ではないという。推測では小さな村落でも年間百数十頭の個体が駆除されているようであり、繁殖力は懸念されるほど強く一定数までは直ちに回復することが容易に想像できる。同様な目的で持ち込まれた獣としてはヌートリアがある。ハクビシンとは台湾名であり、本来は暖地系の獣である。
ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

特徴
頭胴長約50cm、尾長約40cm、体重2?3kg程度。オスのほうがメスよりひと回り大きい。ネコのような体つきで鼻すじが長い。体は暗い灰褐色で頭、手足、尾が黒い。額から鼻にかけて白い線があり、頬も白い。オス、メス共に性器のそばにウズラの卵よりひと回り大きな「会陰腺」を持っている。足指の数は前後共に5本である。これによって、足指の数が4本のタヌキなどと足跡を見分けることが出来る。

生態
植物食中心の雑食性で、果実、種子、小動物、鳥、鳥の卵などをたべる。なかでも果実を好む。熟した果実や野菜など見つけると毎夜同じ路をたどって侵入するので獣道が形成される。木登りが得意である。樹洞、タヌキなどの使い古しなどの巣穴などを棲みかにする。民家の軒下・屋根裏などに住みつくこともある。夜行性で、昼間は住処に潜んでいる。

年間を通して発情・出産をする。ただし、同じメスが年に2回以上の出産するかは明らかになっていない。妊娠期間は2ヶ月で、1?4子を出産する。母子を中心とした家族で生活しており、10?20頭程度の群れをつくることもある。この群れは複数の家族による共同体と考えられる。

人間とのかかわり

害獣
果樹園に入り込み、ミカン、モモ、ナシ、カキなどを食べ荒らすことで、深刻な農業被害を与えることがある。「鳥獣保護法」により、狩猟獣に指定されている。  トマト、ウリ類のビニールハウスに侵入することもある。糖度の高い果樹・野菜を好み、ネット等頭部が潜れば侵入するので小さな穴も補修する必要がある。  一方で熟した果実や野菜を見つけると同じ路を辿って毎夜訪れるので畑の隅などの草むらに獣道状の隙間ができる。ホームセンターなどの農業資材売り場に必ずといってよい程見かけるトラバサミで容易に捕獲できる。

利用
中国では、広東料理の食材として煮込み料理などに用いられてきた。独特の臭みがあるため、ニンニク、醤油などを用い、濃厚な味にするのが普通。しかし、SARS伝染の媒体になりうるとして、流通が禁止された。 2006年の報告によれば、SARSとハクビシンの持つウイルスの遺伝子の一部に違いが見られたこともあり、SARSはハクビシンの持つウイルスが突然変異を起こしたものではないかとの見解も生まれている。 そして、これらの要因を調査した結果、SARSが発生した直接的な原因は野生動物取り扱い業者のずさんな衛生管理だったのではないかと今では考えられている。

2009年01月16日

天智天皇


ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー
天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)。第38代天皇。国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。生前は葛城皇子(かづらきのみこ/かつらぎのみこ)と呼ばれていたと思われる。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは皇太子の意で、「中大兄」は「次の皇太子」を意味する語。

舒明天皇の第二皇子。母は宝皇女(のちの皇極天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害し、叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。そして大化という元号を制定し、様々な改革を行なった(大化の改新の中心人物、乙巳の変)。また、有間皇子などのちのちクーデターを起こしそうな勢力を罠に嵌めて死刑とした。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年、斉明天皇が崩御した。その後、長い間皇位に即かず称制したが、663年、白村江の戦いで大敗を喫した後、667年、大津へ遷都してそこで即位した(668年)。白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。又、冠位もそれまでの十九階から二十六階に制度改革などを行なっている。また、670年には我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成させている。

天智天皇は、第一皇子・大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝える。しかし、天智の死後に起きた壬申の乱において 弟・大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位した。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。称徳の死後、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、それ以降は天智系統となる。

大海人皇子から額田王を奪ったので、罪滅ぼしとして(自分の)娘4人を大海人皇子の元に妃として送り込んだと言われている。

系譜
皇后:倭姫王(やまとひめのおおきみ) - 古人大兄皇子女
嬪:蘇我遠智娘(おちのいらつめ) - 蘇我倉山田石川麻呂女
大田皇女(おおたのひめみこ) - 天武天皇妃 、大津皇子・大来皇女母
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇) - 天武天皇后、草壁皇子母
建皇子(たけるのみこ) - 夭逝
嬪:蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂女
御名部皇女(みなべのひめみこ) - 高市皇子妃、長屋王母
阿閇皇女(あへのひめみこ、元明天皇) - 草壁皇子妃、文武天皇・元正天皇母
嬪:蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ) - 蘇我赤兄女
山辺皇女(やまべのひめみこ) - 大津皇子妃
嬪:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ) - 阿倍倉梯麻呂の女
明日香皇女(あすかのひめみこ)
新田部皇女(にいたべのひめみこ) - 天武天皇妃、舎人親王母
夫人:道君伊羅都売(いらつめ) - 道君氏女
志貴皇子(しきのみこ、施基皇子・春日宮天皇。後に親王) - 光仁天皇父
采女:宅子娘(やかこのいらつめ) - 伊賀国造某女?
大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)
(阿閇皇子 - 日本書紀に見えず、疑問)
(阿雅皇女 - 同上)
宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - 忍海造小竜女
川島皇子(かわしまのみこ) - 淡海朝臣・春原朝臣祖
大江皇女(おおえのひめみこ) - 天武天皇妃、長皇子・弓削皇子母
泉皇女(いずみのひめみこ、後に内親王) - 伊勢斎宮
宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - 栗隈首徳万女
水主皇女(みぬしのひめみこ、後に内親王)